記念すべき創刊インタビューは、フリーのPR・編集者として大手企業からも引っ張りだこな「しおたん」こと塩谷舞(しおたに まい)さん!
塩谷さんは大学在籍中に、「アート」をテーマにしたフリーペーパー『SHAKE ART!』を立ち上げ、就職と同時に上京。その後、株式会社CINRAにて、Webディレクター、PRとして活躍。そして、2015年の5月には独立を果たされるなど、次々と新しいステージで活躍を遂げています。
今回はそんな塩谷さんに、彼女のこれまでのキャリアと現在の「週2でオウンドメディアの編集長」というユニークな働き方について伺ってきました。
後編:「私はクズだなって思うけど、それでも出来る仕事もある」永遠の“一発屋”を目指す塩谷舞(しおたん)を追う
突き動かすモチベーションは“現状に対する疑問”
塩谷舞(撮影協力:TECH LAB PAAK)
—学生時代から編集のお仕事をされていたんですか?
塩谷:フリーマガジン『SHAKE ART!』を創刊して編集的なことはしていましたが、別に記事編集をやりたくて始めたわけじゃなかったんです。美大生というある種閉鎖的な環境に何か刺激を生み出したくて、その解決策の一つにフリーマガジンという形があっただけ。
ですが、美大生が雑誌を創刊するとなると、集まった初期メンバーはデザイナー、デザイナー、デザイナー…。その中で書かざるを得ない部分があって始めたというか。編集の先生がいた訳ではなかったのですが、雑誌を出すたびに周囲が「こうした方がいい」とか「これは面白い」とか反応してくれて、そんな中で学ばせていただくことが多かったです。
—そのように自ら率先して活動されてきた背景には、どんな想いがあったのですか?
塩谷:本来、そんな人並み外れた向上心があった訳ではなくて……おそらく現状に何も問題がない世界だと、特別なアクションを起こすこともなく、ダラダラして過ごしているだけだと思うんです。
でも転機になったのは「自分よりすごい才能のある同級生」の存在でした。
高校時代に、絵がめちゃくちゃ上手い同級生がいたのですが、いわゆる「スクールカースト」という階級社会のせいか、その実力がまっとうに評価されていないと思ったんです。
一方私は「そこそこ」絵が上手かったのですが、当時から営業やPR的な行動をしていたからか、日の目を浴びることが多かった。
その状況に「自分なんかより、もっとスゴい人がいるやん!」という疑問が沸いてきて、私は自分をPRするよりも、彼をPRしなければいけないな、と感じたんです。だから私は美大に行って、彼らの側にいながら、その魅力を伝える営業マンになろうと決めました。
クリエイターになるのではなく、「情報」や「状況」を生み出そう。それで何かを変えられるんじゃないか? という想いがありました。
『SHAKE ART!』冊子
—前職のCINRAではWebディレクターを経てPRのポジションに。
塩谷:CINRA入社時、私は編集者を志望していたんですが、上司が「まずはディレクターとして、大きな広告制作に携わってみないか?」と提案してくれました。そうして広告物やWebサイトなどを制作するディレクターを2年半。最後の1年はPRも兼任しました。
Webや広告の仕事をしていく中で、新たな視野が開けたというか、武器が増えましたね。Webディレクターとしてインターネットの仕組みを体系的に理解できたし、ソーシャル上でバズを起こすこととかも好きなので、それに目覚めていろいろ勉強したり、個人的に活動してみたり。
そうこうしているうちに、個人的にも「PRして欲しい」「バズらせて欲しい」って仕事の依頼をいただくようになったんです。入社前から「入社3年で独立したい」ということも言っていたし「今だ!」と思ってPRとして独立し、現在に至るという感じです。
—入社して3年で独立というのは、何か理由があったんですか?
塩谷:ありきたりな話ですが、母からよく「石の上にも3年」ということを言われていて、その受け売りです(笑)。でも、「インターネット業界の1年は、他の業界の3年に値するんだ!だからもう3年経ったし辞めるっ!」とか意味不明な主張をしたりもしてたんですけど、それは今思えば、新卒ならではの仕事環境へのショック反応でした。そこを乗り越えると、徐々に仕事も楽しくなりました。
今思えば、1年で辞めていなくて本当に良かったと思いますし、当時メンバーの働き方を一緒に考え直してくれた先輩たちには本当に感謝しています。そして組織の変化と共に3年働くうちに、随分視野も広がりました。
でもやっぱり一番は、「一人の人間としてインターネットを武器に全力で戦いたい」ということでした。仕事をしながらヤバい作品を目の当たりにして、「なんで私がPRできないんだろう?!」と悔しくなったり。個人として全力でPRしたい!と思い始めたら、我慢できなかったんです。
過去に公開された記事がきっかけで『THE BAKE MAGAZINE』の編集長へ
塩谷舞
—前職から独立される前に、現在担当されている『THE BAKE MAGAZINE』の編集長というオファーはあったんですか?
塩谷:そのくだりは、こちらの記事『オウンドメディアをはじめて1ヶ月。すごい効果がありました』に書いてもらっているのですが、突然お菓子屋さんからお誘いメールをいただいて、ビックリしました(笑)。転職は考えていなかったし、CINRAの同業他社に行くこともあまりリアリティがなかったのですが、お菓子屋さんのスタートアップって一体何だ! っていう謎な存在への興味が先行して。まずは話を聞いてみたいと思って自由が丘の事務所に行きました。
もともと、担当の方が今の私のポジションの人間を探すときに「広報」とか「編集」という単語でいろいろと検索したらしいんです。でも全然イメージするような人が見つからなかったらしく。
それで最後に「キラキラ広報」で検索したら『「キラキラ女子」ならぬ「開拓女子」? 3人のIT広報が語る“攻めの仕事術”』という記事にたどり着いたという・・・。
—あ、あの記事ですね!(実際に「キラキラ広報」で検索してみる・・・。)あ、これですね。
「キラキラ女子」ならぬ「開拓女子」? 3人のIT広報が語る“攻めの仕事術”
塩谷:BAKEはお菓子屋さんですが、私自身スイーツには全然興味がありませんでした。むしろ甘いものは苦手なくらい(笑)。でも、そのビジネスモデルを聞くと、「日本の製菓業界をなんとかしたい」「第一次産業の仕組みを変えたい」という課題解決意識を持っているし、ものすごいスピードで実行しているんです。課題解決のための仕組みを作る、という点に強いシンパシーを感じました。しかも甘いものが苦手な私にとっても、BAKEのお菓子はめちゃくちゃ美味しいんですよ!
普通にお菓子屋さんとしてスイーツの情報を発信していくだけだと、お客様は増えても、ビジネス系の人材にはなかなかリーチ出来ない、という課題があったようです。なので、『THE BAKE MAGAZINE』ではB to Bとして発信していくべきだという話になり、私が呼ばれたらしいのです。
今は週2回勤務で、週2回の記事更新をしています。自分の能力が最大限に活かせているし、さらに挑戦もできる環境ですごく楽しいんです。学生時代からずっとライフワークにしていた「情報発信」と、社会人になってから身につけた「Webディレクション」や「PR」という3つの要素が、うまくハマったんですよね。
学生時代は「アート」にこだわっていましたが、お菓子を作るのも、牛乳などの原材料を生み出すのも、デザインなどのブランディングも、全ては広義で「クリエイター」の仕事。彼らのクリエイティブに刺激を受けながら、それを広める仕事には生き甲斐を感じています。
—前編はここまで!後編では、塩谷さんが現在の『THE BAKE MAGAZINE』の編集長になった後のお話を伺います。こちらも併せてご覧ください!
後編:「私はクズだなって思うけど、それでも出来る仕事もある」永遠の“一発屋”を目指す塩谷舞(しおたん)を追う
※掲載内容は2015年6月時のものです。